翻訳:韓 永金
修正:須崎 孝子
監修:姚 武強
補筆・再構成:大橋 直人
海龍屯(別称:海龍囤・龍岩囤・竜岩屯)は、貴州省遵義市老城の北西約28キロメートルに位置する龍岩山の山頂に築かれた城塞遺跡であり、宋代から明代にかけて存続した「土司制度」に基づく軍事城郭の代表的遺構である。城郭の最高地点は海抜1,354メートル、最低地点は974メートルにあり、比高差はおよそ300〜400メートルに及ぶ。城頂部は平坦で広く、その面積は約1.59平方キロメートルに達している。
城内には九つの関門が築かれ、前方には銅柱関・鉄柱関・飛龍関・朝天関・飛鳳関の六関、後方には万安関・二道関・頭道関の三関が配置されている。この巧妙な配置は、外敵の侵入を効果的に防ぐ軍事的要塞としての機能を物語っている。
海龍屯は、中国に現存する中世の軍事古城の中で最も保存状態が良好な遺跡のひとつであり、その堅固さと関所の険しさによって知られている。1982年には貴州省の省級文化財保護単位に指定され、2001年には国家重点文化財保護単位へと格上げされた。さらに2015年7月4日、第39回世界遺産委員会において「世界文化遺産リスト」に正式登録され、中国南西部の土司文化を代表する遺産として国際的に評価されるに至った。
「土司制度」とは、中央政府が辺境地域の少数民族首長を世襲の地方官として任命し、一定の自治を認めつつ中央への従属を保証する制度である。海龍屯はその権力と軍事的基盤を示す象徴的な遺跡であり、同制度の歴史的展開を理解する上で極めて重要な文化資産である。
海龍屯の歴史的形成と「改土帰流」
史書によれば、秦漢時代以降、西南地域において中央王朝は「夷をもって夷を制す」という間接統治政策を展開していた。すなわち、地方の少数民族首長(土司)に一定の自治を認め、貢納を通じて中央への従属を保証する仕組みである。遵義(古称・播州)を治めた楊氏土司もこの枠組みの中で勢力を保持し、権威を確立するために幾度も海龍屯の修築を行った。
唐代咸通14年(873年)、南詔が唐に反旗を翻し播州を攻略した際、播州は一時占領された。しかし乾符3年(876年)、播州楊氏の始祖とされる山西太原出身の楊端が軍を率いて奪還し、その後、軍事的防衛拠点として龍崖山(現・海龍屯)に駐屯したことが記録されている。
南宋時代に入ると、モンゴル帝国が急速に勢力を拡大し、宝慶3年(1227年)には西夏を、端平元年(1234年)には南宋と連合して金を滅ぼした。以後、モンゴルと南宋との対立が激化し、四川・重慶一帯は戦火にさらされることとなった。このような軍事的圧力の中で、南宋宝祐5年(1257年)、播州の指導者楊文議は両府節度使呂文徳と協議し、「一城を築くことこそ播州防衛の根幹である」として龍岩山に新たな城塞を築いた。これが海龍屯の本格的な築城の始まりとされ、『楊文神道碑』にその事績が記録されている。
明代に入ると、播州土司楊氏の勢力はさらに拡大した。万暦元年(1573年)、楊応龍が宣慰使の地位を継承すると、万暦17年(1589年)以降、対外的には朝廷との関係を保ち恩賞を得つつ、内部的には土司権限を強化し、播州における支配を固めた。万暦24年(1596年)、楊応龍は約八万人の人夫を動員し、四年をかけて龍崖屯を大規模に拡張した。城郭や宮室を整備し、前後12の関門を築き、総面積約5平方キロメートルに及ぶ堅固な要塞都市を形成した。石垣や城門には関名が刻まれ、内部には矢楼、倉庫、兵営、水牢が設けられるなど、当時としては屈指の軍事拠点であった。
しかし万暦27年(1599年)、楊応龍は遂に朝廷に対して反旗を翻した。明朝は直ちに24万の大軍を編成し、八路に分かれて播州へ侵攻した。この戦役は114日間に及ぶ激戦となり、「平播の役」として歴史に刻まれている。翌万暦28年(1600年)、総督李化龍の指揮のもと諸軍は海龍屯を総攻撃し、6月6日に城は陥落、楊応龍は自害した。
この事件を契機に、万暦29年(1601年)、明朝は播州において「改土帰流」を断行した。すなわち、従来の世襲制による土司統治を廃止し、中央から派遣された官僚による直接統治へと移行したのである。これにより、楊氏一族が725年にわたり継続した世襲土司体制は終焉を迎え、以後全国各地で「改土帰流」が推進される先例となった。
海龍屯の歴史と構造
海龍屯は南宋宝祐五年(1257年)、南宋朝廷と播州の土司楊氏が共同で築いた軍事要塞である。その後、明代万暦二十八年(1600年)に勃発した「平播の役」において明朝軍の攻撃を受け、壊滅的な打撃を受けた。すでに築城から七世紀以上が経過しており、その歴史的価値は極めて大きい。なお「平播の役」は、貴州省における史上最大規模の戦闘であり、死傷者数も最多であったと記録されている。
海龍屯の敷地面積は約1.59平方キロメートルに及び、龍岩山の山頂部に位置する。北・東・南の三方は深い断崖で、湘江の源流のひとつである「白砂水」を臨む天然の要害となっており、山頂へ通じる経路は南東に伸びる一本の険しい山道に限られている。この登城路には順に、銅柱関・鉄柱関・飛虎関・飛龍関・朝天関・飛鳳関の六関が設けられ、さらに背後には万安関・二道関・頭道関の三関が配されていた。これら九関によって、外敵の侵入を徹底的に防ぐ構造となっていたのである。
山腹部の第一関所は、南に銅柱関、北に鉄柱関が対峙し、その間を長さ約400メートルの城壁が連結していた。ここに設けられた「三十六歩古道」は唯一の登城路であり、切り立った斜面に築かれた全長52メートルの石段で構成されていた。階段一段ごとの高さは60~80センチに及び、傾斜角は約30度とされる。実際にははしごに近い急勾配であり、敵軍の進軍を阻む重要な防御施設であった。
さらに山腹の第二関所には、飛虎関が築かれていた。別名「吊橋関」とも呼ばれ、半崖上の天然の岩溝を利用して門が設けられた。飛虎関と飛龍関を結ぶ道は「龍虎大道」と称され、全長292メートル、幅1.5~4メートルの山道が崖沿いに切り開かれ、屯の内外を結ぶ交通路として機能していた。
山頂部に位置する飛龍関は三間に分かれ、三基の大アーチと二基の月亮門を備えていた。これが東側から屯の核心部へ入る第一の関門であり、三つのアーチは互いに組み合わさって、平面が「4」の字形を呈していたと伝わる。南壁には石造の透かし窓が設けられ、菱形の精緻な文様が刻まれていた。さらに西側は「殺人溝」と呼ばれる断崖に臨んでおり、その長さは約1,000メートル、深さはおよそ350メートルに及ぶ天然の絶壁が迫っていた。
このように海龍屯は、自然の地形と人工の築城技術を融合させた中世南西中国を代表する軍事要塞であり、その軍事建築史的価値はきわめて高い。
屯の前部には「朝天関」と呼ばれる石造建築群があり、城壁の高さは約14メートルに及ぶ。朝天関は海竜屯の東大門に位置し、北方には飛竜関を望み、南方では鳳凰関と接している。
屯の中部には王宮が築かれており、中央の「足踏み」を軸に両側を石壁で囲む。その長さは504メートルに達し、全体を囲む新王宮の面積は約1.8万平方メートルに及ぶ。王宮建築群は大きく中路・西路・東路の三道に区分される。なかでも「中路」は土司が政務を執る空間であり、正門・儀門・庭・正庁・二堂の順に配置されている。大門の左右にはそれぞれ三本の柱が立ち、両側には八の字形の壁が築かれ、その外周は柵で囲まれている。中央部分には天井を備え、その中央には突出部が設けられ、両端には階段が接続している。また、後宮建築群の遺跡や、数千人が使用可能とされる古井戸も現存している。
屯の中後部には、点将台、学校場(演武場)ダム、兵営遺跡、さらには海潮寺といった施設が配置されている。
屯の後方には後関・西関・万安関の三つの関門が設けられており、いずれも土城と月城(石城とも呼ばれる)の二重構造を成している。
内城遺跡の中でも「銅柱関」は、海竜屯の東側山腹の南面に位置し、北を背に南へ向かって築かれている。ここは東南方面から海竜屯へ入る際の最初の防御関門である。創建は南宋期に遡り、明代に補強・再建が行われた。建築材には青石が用いられ、石灰ともち米を混ぜ合わせた糊を接着材として積み上げられている。構造は片通路の半円アーチ型屋根を備え、現存する規模は高さ6.68メートル、幅10メートル、奥行き5.75メートルである。屋根部分にはかつての柱を支えていた石材が1基残存し、また敷石も1枚確認されている。
鉄柱関は、海竜屯の東側山腹の北面に位置し、南向きに築かれた関門で、銅柱関と対をなし、互いに角を成して海竜屯の防衛線を構成している。ここは東北方面から城に入る最初の関門にあたり、下方は深い渓谷に臨み、上山の道を扼して北大門へ通じる要衝である。関門の外側にはかつて吊り橋が架けられていた。
創建は南宋期に遡り、明代に補強・再建が行われた。建築材には青石を用い、石灰ともち米を混合した伝統的接着材で積み上げられている。積み方は縦連結券法を採用し、単独通路を有する半円形アーチ構造の「吊橋関」と呼ばれる建築様式を示している。現存する規模は高さ5.2メートル、幅6.3メートル、奥行き4.2メートルであるが、南面の一部は崩落しており、石柱基礎が1基残るのみで、城壁も約90%が倒壊している。
残存する南側城壁の大部分は明代に築かれたもので、2014年の修復作業の際に発掘・整理された。その際、明代城壁の内部から宋代の城壁が確認され、現地で展示されている。これにより、宋代から明代にかけての建築変遷を実証する重要な史料的価値を有している。
鉄柱関の上部には「泊馬台」と呼ばれる平坦地が接続しており、これは上下二つの関門を結ぶ軍事監視台でもあった。建築技法としては、東・南・北の縁に「ウエスト・ストーン」(長大な石材を横に配置する工法)を敷き、中央階段には「石幔」(石灰岩洞窟に形成される炭酸カルシウムの堆積物)を用いて仕上げられている。
明代万暦年間、播州第二十九代土司・楊応龍が龍岩屯を拡張した際、ここに「龍岩屯厳禁碑」を建立し、出入管理を厳格化した。城内へ入るには「済帖」と呼ばれる通行証の提示が義務付けられ、ここで検査を受けた後、飛虎関へ進むことが許されたのである。鉄柱関から飛虎関へと続く石段は、かつて「三十六歩」と呼ばれ、長さ55メートル、傾斜約45度、幅2.7メートル、両側に幅0.8メートルの石壁を備えていた。険しい山梁の上に築かれたこの階段は、登下山における唯一の通路であり、極めて戦略的な意味を持っていた。
地理的環境
海竜屯は、周囲を群山に囲まれ、峡谷が複雑に入り組む地形に築かれている。龍岩山は雲に届くほど高くそびえ、山下の峡谷には白砂水が流れる。城郭は三方を川に囲まれ、南東の一本の小道のみが山頂に通じており、天然の要害を成していた。