楊粲墓(ようさんぼ)は、遵義市紅花崗区深渓鎮坪橋村の東方約3キロメートルに位置し、南宋時代の播州(現在の貴州省遵義一帯)の安撫使であった楊粲と、その妻が合葬された墓である。墓室は北側と南側の二区画に分かれ、内部には計190点に及ぶ精緻な石刻彫刻が施されており、中国学界から「西南古代彫刻芸術の宝庫」と称されている。
播州楊氏の始祖は山西太原出身の楊端である。彼は唐代僖宗(位:873–888)の治世下に播州討伐を命じられ、平定に成功したことで「播州侯」の称号を与えられた。その後、楊氏一族は世襲的にこの地の統治を担い、地方政権(土司)の基盤を築いた。楊粲はその第13世にあたり、40年余にわたり安撫使を務めた人物である。彼の治世期には播州が最盛期を迎え、政治の安定、経済の発展、文化・教育の振興が進展し、地域秩序が確立されたと伝えられている。
楊粲墓は1953年に発見され、1982年には国家重点文物保護単位に指定された。墓は1241~1252年(南宋期)に造営された大型の石造墓であり、石刻芸術は精細かつ写実的で、当時の地方権力者の威信と文化的素養を象徴している。遵義市中心部からは約10キロメートルに位置し、現在では貴州における南宋期の地方史研究や彫刻美術史研究において極めて重要な史跡とされている。
補筆・再構成:大橋 直人