翻訳:楊 順佳
修正:宮澤 詩帆
指導:王 暁梅、楊 梅竹
監修:姚 武強
ミャオ族は稲作文化の創作者である。ミャオ族の祖先は長江流域で長い時間に水稲の生産を主な生計をして、かなり厳しい自然環境条件の下で周囲の環境と調和のとれた水稲の生産条件を開拓して、豊富な農業経験を積して、様々な伝統的な生産習慣を構成して、ユニークな稲作文化を創造した。そして、貴州に移転しても豊かな稲作の風習や儀式を保存している。
春節の始業式。黄平ミャオ族は春節后の牛の日で、前日の上り坂で用意した穂の大きくて長い三本の「バモ」(祈る植物)を持って、三本の柱の香と紙銭七枚と鍬を持って自分の畑に行き、「バモ」の茎を日の昇る方向に植えた。風が穏やかで、作物が日光と雨の潤いの下で稲が豊かになることを期待した。この日から人々は自由に山の上で働くことができる。
雷公山(貴州省黔東南ミャオトン族治州雷山県)では、立春の早朝、各家庭の年長者が鋤や炬火や草で作る棒を持って自分の水田に行き、神聖な立春の儀式を行う。まず鋤で土を3回掘って、それから炬火と草の棒を土にさして自分の物になっていることを示して、他の働物は鼠、鳥、虫などと病気はすべて来ることができない。そして、その年の天候がよくなることを祈る。
播種の祭り。ミャオ族の村では、立春後の3度目の雨が降った後、播種することが始めた。播種するの日は3回の春雷の後の日に决まっているが、これはミャオ族の人々がこの日を吉日と考えている。播種する時は必ず先に本村の最初の1戸の家の主、すなわち村の年長者は最初に田へ播種しなければならない。こうのようなすれば、村の水稲は病気や虫害、人為的な被害を受けなくなる。播種することは終わったら、草の棒が田にさして若苗がすくすく成長することを示す。
「開秧門」ミャオ語で「qangd yib」と言う。「開秧門」は植付する前に行われる稲の豊作を祈るお祭りだ。毎年、若苗が一尺ほど伸びると、各戸が田を耕し、田植えの准備をする。植付する前には、村の「耕作代表」すなわち生産の担い手は植付する儀式を執り行ってもらう。「開秧門」の日に「耕作代表」は夜更け外に出てから家に帰るまでの時間、女に会うのを忌み、男に会っても相談することもできない。神事に災いを与えないようにした。植付することが終わると、五倍子の木を家に持ち帰り、門の前に置いた。五倍子の木にはバモを巻いて、「開秧門」の活動を始めることを表す。そして「耕作代表」は家族全員と、魚、肉、酒などを神棚に供え、稲の豊作を祈る。先祖や神様を祭る前に、家に入る辻で焼香をして、先祖や神様に感謝していることを示す。
雷山県で「開秧門」の時間は、二十四節気の立夏から小満のあいだだ。この日、男の主人はまず自分の田に若苗を取りに行って、それから事前に平らに整えた田に若苗を入れて、7か9カブトに苗を入れて、1本の先の尖った楓の枝と1本または3本の端で結んだバモが若苗のカブトの中に入れる。そのあと、家に帰って魚と植物の汁で染めた様々な色もちが先祖の位牌の前に献上して、主人の口の中で祭りの言葉を言えて、先祖と神様にいい天候と五穀豊穣を祈るように頼む。「開秧門」の日からは連日田植えができる。伝統的な「開秧門」の行事では、一般的に女性を避ける。途中で女性に会うわけにはいかない。
「開秧門」の由来について雷山県には伝説がある。昔、ミャオ族の祖先は遠い所から、山を越えて現在の居住地にやってきて、豊かで幸せな日々を過ごすと思っていたが、実際には洞窟に住み、木の葉を身につけ、果物や山菜を食べていた。ミャオ族の先民たちは貧しい生活から抜け出すことために、神に祈っている。ある日、天上の「秧公」や「秧婆」は、人々の祈りを聞いて哀れみ、田を開けたり田植えをしたりするコツをいろいろ教えてくれた。それ以来、記念と豊作を祈願するため、「開秧門」が村全体で行われるようになった。
「閉秧門」。旧暦の6月初6日は、ミャオ族全体で田植え日である。その日の朝、各家庭は山へ行って、五倍子の木とバモを切り、さらに白い石を家に持ち帰って、これは「閉秧門」の標幟を構成すた。すなわち神竿にした。家の主人たちは田植えを終えた田の中央に神竿を持ってきて、「おれがお前に関われば、若苗が山のようになる」と言えた。神竿を挿し終わると、家に帰って鶏を殺し、鴨を殺し、農具を供えし、呪文を唱える。「閉秧門」であり、生産した農具を祭る行事でもあるが、本質的には稲の成長を祈る農耕儀礼である。