――日本文化起源についての研究
一九九四年六月
指導教官:吉岡 幹浩
筆 者:姚 武強
初めに
アジア大陸の東のはずれの海の上に、日本列島の骨組みが出来上がったのは、今から五千万年前だった。これは地質学の上では、新生代の第三紀にあたる。その始めごろから、日本の国が陸地となるための上下運動が活発になった。
しかし、始めから今のような列島ではなく、アジア大陸と地つづきで、半島の形をしていたと考えられている。
一千万年ほど前には、「日本半島」の地盤がしずみだし、陸地は今よりずっと小さくなった。ところが、百万年ほど前に、人類が活躍しはじめたころ、海の水がひいて、日本の陸地が広くなり、アジア大陸とだけでなく、フィリピンやジャワ島とも、陸つづきになったと言われている。ところが、洪積世の末ごろには、アジア大陸の東がわの陸地がしずみはじめ、朝鮮海峡や津軽海峡ができて、日本はとうとう大陸からきりはなされ、今のような列島の形になった。①
日本列島の骨組みが出来上がった今から五千万年ほど前には、日本列島は無人島だ。それならば無人島の日本に人がすむようになったのはいつごろのことだろうか、それから日本人の先祖はどこからきたのだろうか。
日本人は一つのユニークな日本文化起源論をもっている。それは日本民俗学の父ともいわれる柳田国男氏が、その最後の著作となった『海上の道』(昭和三十六年)のなかで提唱した仮説である。その主張の大要はこうである。
古代の人たちに宝の貝として珍重された子安貝が沖縄付近の海で数多くとれるが、最初は漂着などの偶然の機会にそのことを知った人々が、その後、この宝(子安)貝を求めて、中国大陸なかでも揚子江以南の江南の地方あたりから家族を伴って移住してきた人たちはイネの栽培適地を求めて、さらに島伝いに北上して南九州に達し、そこから日本に稲作文化がひろがっていったというのである。②
柳田国男氏の日本文化起源論の中に、中国大陸揚子江以南の江南の地方あたりの人たちは宝貝を求めるために、家族を伴って、沖縄付近へ移住して、その後は南九州に達し、稲作文化がひろがっていたと書いてあった。その揚子江以南の江南地方は、古代の中国「蛮」という部落が住んでいたところであった。「蛮」は今の各少数民族の祖先である。
苗族の歴史は、三千年とも五千年とも伝えられているが、彼等自身には固有な文字がないため苗族側の文献でそれを裏付けることができない。その代わりに、親から子へ、子から孫へというように口承文芸として語り伝えられている数多くの歌や昔話の中に、また巫師(シャーマン)の唱え言の「巫詞」の中にと様々な形で自らの来歴を伝えている。その中で古代からの伝承を扱ったものは「古歌」と総称されている。例えば、そのうちの一つ「踄山渉水」によると、昔苗族の祖先は今よりずっと東方の地で暮らしていたが、よりよい生活を求めて西へ西へと移動してきた様子が描写されている。③ また、漢民族側の残した古い文献で、儒教の五経の一つ『書経』の「舜典」に記載されている「三苗」とは苗族の祖先のことではないかと考える歴史家もいる。当時、揚子江の中流域に住んでいた。
「三苗」は漢民族の祖先である「華夏族」と戦争をし、後漢代にはすでに苗族の祖先が湖南の西、貴州の東に居住しており、この地方を当時「五渓」といい、ここに住む苗族を含めた少数民族を「五渓蛮」あるいは「武陵蛮」と呼んでいたことである。そのあと西徙して、次第に現在の分布になったが、苗族「古歌」にも西方への遷徙が反映している。五渓蛮の一部は烏江に沿って今の貴州西北と四川の南に入り、ある一部は四川の東、湖北の西に進入し、九世紀、一部は捕らわれて雲南に移り、六世紀には海南島へ徴用により移されたという。以上は比較的大規模な移動だが、小集団的移動は絶えまなく行われ、四方に分散して現在に至っている。④
苗族は、漢民族とは言語も習慣も異なり、かつては湖南、湖北、江南にまたがる地方に住んでいたと言われ、後に漢民族に圧迫されて、西南方の貴州や雲南、さらにタイやラオスによれば、昔は揚子江の中流域で水稲耕作を営んでいたといい、民族の故郷は東にあると信じている。もしそうだとすれば、日本に稲作が伝わったのは江南からという説があるから、漢民族の南下に伴う変動の時代に、稲をたすさえて南中国から日本へ渡って来た人々の中に、苗系の文化を持っていた人たちも含まれていた可能性が考えられる。
以上のような仮説に基づき、以下本稿においては種々の事例をあげつつ、日本文化と苗族文化との比較考察を試みたいと思う。
神話伝承
まずはじめに日本の神話と苗族の伝承とを比較してみよう。
「古事記」や「日本書紀」をみると、オオゲツヒメあるいはウケモチノカミといわれる女神が殺され、その死体の各部分から作物が出てくるという神話、いわゆる「死体化生型」の作物起源神話が三ヶ所で語られている。
まず「古事記」では、スサノオが高天原から放逐され、出雲の肥の河上に降る途中の物語として、次のような話が記されている。
「下界に降ったスサノオはオオゲツヒメに食べ物を所望した。ところがヒメは鼻や口や尻から数多くの食べ物を出して饗応したので、スサノオは怒ってヒメを殺してしまった。すると、このオオゲツヒメの死体の頭の蚕、両目に稲、両耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生えた。そこでカミムスビノカミがこれをとって種にした」。
他方、『日本書紀』では第五段(四神出生章)の本文ではないが、「一書十二」に次のような話がある。
アマテラスの命でツクヨミが下界(華原の中の国)にいるウケモチノカミの様子を見にいった。するとウケモチは、首を国に向けては口から飯を出し、海に向けてはさまざまの海産物、山に向けては狩の穫物を出し、それらを並べて御馳走しようとした。それをみてツクヨミはけがらわしいといって剣で殺してしまった。それをみてツクヨミはけがらわしいといって剣で殺してしまった。そのウケモチノカミの死体の頭には牛、馬、額に粟、眉の上に蚕、目の中に稗、腹の中に稲、陰部に麦と大豆、小豆が生じたというのである。
また「一書二」という個所では
「イザナミが火神カグツチを生み、火傷で死ぬ。その死に臨み、イザナミは土の神ハニヤヒメと水神ミズハノヒメを生んだ。カグツチはそのハニヤマと夫婦になり、ワカムスを生む。この神の額の上に蚕と桑が生え、臍の中に五穀が生じた」と記されている。
この神話は日本でたいへん有名なものだが、中国ではあまり知られていないので、念のために『古事記』によって、そのあらましを述べると次のとおりである。
「イザナキ、イザナミ両神は天神から矛を授り、“漂っているこの国土を作り固めよ”という命をうけた。二神は天の浮橋に立ち、矛で海水をかきまわして引き上げると、矛の先から落ちた塩でオノコロ島ができた。そこへ天降り、天の御柱を建て、そのまわりをめぐって結婚しようとする。まず男神がたから、女神がたからまわって、女神が「あなにやし、えをとこを(ああ、すてきな男の方よ)」と先に言葉をかけて結婚した。ところが不具の水蛭が生れたので、葦船に入れて流した。ついで淡島を生んだが、これも子の例には入れない。そこでニ神は天上に昇り、天の神に請うて、神占いをした。神意によって結婚の順序がよくないことがわかったので、それを改めて結婚をやり直す。そして淡路島、四国、九州など、大八洲国の島々をつぎつぎ生む。
この国生みを終えてから、ニ神は次に神々を生んだ。まず、家屋の神にはじまり、海の神、風の神など多くの種々な神を生み、最後に火の神カグツチを生んだ。このとき、女神はミホト(陰部)を火傷して死ぬ。その病臥中に、嘔吐や糞便から鉱山、粘土、灌漑用水、食物の神々が生み出された」。⑤
一方、苗族は次のような神話が代表的なものの一つといえる。
「昔々、大洪水があり、皆溺れ死んでしまい、伏義と女媧の二人の兄妹だけが竹籠の中に入って生き残った。兄は結婚しようとするが、妹はいやがり“競争して追いついたら結婚しましょう。”という。大きな山のまわりをまわったが、兄は追いつけず、亀に教えられ逆まわりしてやっと妹をつかまえた。そこで、もう一度、試みると臼の上下が麓でぴったり重なった。二人はそこで結婚したが、生れた子供は手も足もないただの肉の塊だった。兄は不快に思い、それを刀で切り刻むと、その一つ一つが男の子になった」。⑥
苗族のほかの人類起源神話は子蝴蝶媽媽についての昔話もある。
蝴蝶媽媽は万物の始祖、万物の母親とされており、楓香樹から生まれてきた。ある日、蝴蝶媽媽は半神半人の烏博と恋愛し、結婚して十二個の卵を生んだ。十二個卵には、色形によって、白卵、黄卵、花卵、赤卵、長卵などがあり、黄卵のなかから生まれてきたのが人類の始祖で、「央」という人である。
別の話では、十六の卵から生まれたという報告もある。それによると、大きな楓の木から、二人の女性「榜相」と「留相」(妹榜妹留、この場合は二人)⑦ が生まれ、彼女の生んだ十六の卵のうち、六つは人間、五つは蛇、龍、虎、黄牛、水牛で、他の四つは四種の雷公であり、かえらなかった一つの卵には鬼がいたという。最後に、人間の「姜央」が雷公と争って勝利し、苗族の祖となったとされる。⑧
苗族の神話には、日本のイザナキ、イザナミの国生み神話と構造がよく対応する。両者の神話がきわめてよく似ていることは事実である。なかでも手足のない異常児や肉塊を生む。つまり生み損じという要素が圧倒的に多くを数えるという事実がはっきりしている。
歌掛け
神話や昔話のほか、苗族の文化と日本文化を通じ、習俗や儀礼の面における類似も少なくない。
その一つにまず「歌垣」の慣行をあげることができる。
『風土記』に記録されたものだけでも、撮津の歌垣山、肥前の杵島岳、出雲の前原の崎など日本名地に及んでいる。そのもっとも有名なところが常陸(茨城県)の筑波山、肥前(佐賀県)の杵島岳の歌垣で、八世紀の文献『常陸風土記』『肥前風土記』に、その概略か書かれている。それによると春秋の二季、付近の人ばかりでなく遠方の人たちも、ご馳走を携えて山に登り、飲食をした後、歌ったり、踊ったりして遊ぶのであるが、若い男女は歌舞の間に気に入った相手を見つけ、日が暮れると手に手を取って林の中に消えて行き、そこで一夜をすごす。その時約束のしるしの品物を男から女に贈る習わしで、そうした品物をは貰えないで帰ってきた娘は一人前の娘として扱わない、というのが土地の言いならわしであった。⑨
だから歌垣は、未婚者にとって配偶者を見つける機会であったことは確かであるが、『万葉集』の「筑波山に登りで、嬥歌会と為す日作られる歌」(巻九1759)によると、既婚者の男女もこの行事に参加しているから、必ずしも配偶者を見つけることだけがこの行事の意味ではなかったのである。⑩ それは未婚、既婚に無関係な性的解放の行事で、農作物の豊穣を促すための呪術的意味がその本来のものであったろうと考えられる。
このような歌垣の慣行は、学に文献上に残っているだけでなく、各種の民俗行事のなかにも、その痕跡をよく残している。例えば、四国山地の脊梁部に近い土佐と阿波の国境に位置する高知県の大豊村の柴折薬師の御堂で、旧暦七月六日に行われる例祭には、歌垣的な行事が最近まで行われていたようである。⑪
折口信夫博士は『俳諧の発生――農村におけるかけあい歌』と言う論文の冒頭で、この柴折薬師御堂での行事にふれ、次のように述べている。
「ここでは年に一度、日を定めて両側の麓村から、男女の群聚が登って来て、一夜を堂に籠り明かすと言ふ事である。常は見知りもしない笞の他国人同志の間に一夜の添び寝が行はれること、昔から言ひ伝へた歌垣、嬥歌会を思はせるものがあると言ふ。此だけなら尚、諸国にも類例は豊富にある。が、ここのは、歌垣が曾でさつであった様に、互いに、ひと夜妻を選ぶだけではなかった。……昔から定った文言があって、其を両方に立ち別れた男女が、掛け合せると言ふ儀礼を行っているのだ。⑫
一方、苗族の若い男女は、節日(まつり)のときに、また趕場(市)や村境の遊方坪でと機会あるごとに相手を求めて互いに歌をうたい合う。そして、初めは数人ずつのグループ交際であったものが、歌をうたい合い、相手に対する理解が深まるにつれて、しだいに相手を特定した「定情」と呼ばれる恋愛関係に入る。さらに歌をうたい互いの愛情を高めあい。結婚への意志を若い二人の間で確かめ合うが「定情」の関係である。定情から定婚に至るまでの過程は、若い二人だけの世界であるが、定情によって二人の意志が一致すると、事は家と家の問題、時には同族集団としての村の問題にまで発展することになる。
ふつう若者は互いに相手を自由裁量で定めた後、双方の親の同意を得て、円満に結婚に至るという「老人開親」の道をたどる。しかし、時には双方の親の同意が得られずに、互いに示しあわせた駆け落ち的な「自由結婚」の道をとる者もいる。ということであった。
苗族の間では、収穫の終ったあと、村をあげて、「遊方」という一種の歌垣も行われるという。そのときには若い男女が、村はずれの林や丘の定められた人気のない場所に集まり、男女が向いあって相聞歌を歌い交す。互いに気に入った相手がみつかると二人きりになって歌いながら、指輪やかんざし、あるいは美しく刺しゅうした布「花帯」などを約束のしるしの品物として手渡すというのである。祭りのほかにも、苗族では正月や笙まつりの日、あるいは農閉期の夜などに随時、歌垣が営まれ、男女の交歓が行われている。⑬
「歌掛け」は一つの文化として認めてよいほど重要な意味を持っておる。日本と苗族では個人的、集団的な歌掛けが盛んである。それから、中国西南部のほかの少数民族、東南アジアのマレーシア、インドネシア、ネパール、ではこのような歌掛けもある。歌掛けは共同作業の発達に伴って発達して、焼畑、水稲農耕地帯の文化である。
葬式
日本では、人が死んでから、永眠と言う。巫師が「ご臨終です」と告げたら、家族や、近親者は死者に末期の水を飲ませる。新しい筆の穗、または割ばしの先に脱脂棉を糸でしばったもので、夫に対しては妻、長子、次子と肉親から親戚、とくに親しかった友人知人の順序で死者の唇をしめす。
むかしは湯灌といってたらいに水に入れ、お湯を注いでから遺体を洗い清めるのが習慣となっていた。湯を水で薄めるのが普通のやり方、この湯灌にかぎり水に湯を注ぐために逆さ水と呼んでいる。
人が死ぬと、葬式までの間とりあえず枕飾りをする。枕飾りとは、葬儀屋の用意であって、葬儀屋の発生に伴って生まれた言葉である。それ以前はいろいろな品物を持ってきて死者の枕辺においた。守り刀として枕刀を置くが、枕刀のかわりに剃刀を置くこともある。これは死者があの世に行ってからの護身用の意味だ。枕飾りをするには、まず遺体の頭を北に向くように枕直しをする。
永眠したその日の夜、遺体を守って遺族と近親者のみで最後の別れをするのが内通夜、友人や知人、近所の人々が集まって故人をしのぶのが本通夜である。むかしは徹夜で遺体を守り、飲食をした。
家族が死亡したら、遺族は哀しみを乗り越えてすぐにも葬式の準備にかかる。まず第一に葬主と葬儀の世話役を決める。弔間のお礼は、むかしは後日ハガキで行った。
むかしから、死者は冥土に行くと、閻魔の方で七日目ごとに七回の審判があると信じたれていた。とくに、五回目と最後の七回目が大きな判決日とされ、この日、三十五日と四十九日には法事を行う習慣があった。
形見という考え方そのものは古くからあり多分に精神的なものだった。形見分けは、故人の持っていたものを親戚、友人知人、弟子などが分けてもらって記念品とするという習慣である。
墓参りの習慣は死者の命日、三十五日、四十九日などの法要を営む日に墓参りをすることから生じだ。墓参りが流行したのは江戸時代に多くの制約をされて、家庭に閉じこめられていた婦女子が、先祖の供養を口実として、外出することができたからである。神詣と同じて、それをいうと、行ってはいけないとはいえないから婦女子は遊びに行くときの口実にした。⑭
凱里県舟渓区の黄金寨の苗族では、人間は六十歳になると、棺桶と寿衣(死者に着せる衣服)を用意しておく。老人が病気になると、家族の者は厳重に見守り、息をひきとる前には、必ず堂屋へ移す、息をひきとるとすぐに屍体を整え、寿衣を着せ、霊床(死者をねかせる臨時の床)にのせる。
葬式は夏は棺を一日だけ家に置き、冬は三日二晩に置く。一日目は親戚と友人、客の「弔言」(お悔やみ)を受け、その後で入棺する。二日目は「指路」を行なう。これは巫師をよんで、魂を東へ送る行事で、一定の巫詞を唱えて、魂の進む方向を指示し、送魂することである。巫詞は「故郷は東の方にある、魂は東の方へ行け」という内容である。次に「開路」に移る。
苗族の人々は屍体を墓へ移すことを「上山」(山へ上る)と称しているが、これは墓の多くが山の斜面にあるためであろう。まず巫師が一本の刀で「去邪除悪」をし、皆はその後ろについて進む。棺は息子達によって担がれ、⑮ 一番上の息子は傘で陰魂(死者の魂)を遮り守るために棺にさしかけ、一番上の娘は松明で(昼間でも)道を照らしながら進む。葬送の歌はうたわず、人々はただ哭くだけで、墓へ行くまで紙銭を撒きながら進む。墓地ではあらかじめ穴が掘っており、棺が到着すると、棺の盖をもう一度開け、骸を整えるなど最後の別れを行ない、埋葬する。
埋葬から三日後にはといって「復山」といって再び山へ行き、墓に土を加える。
「弔言」から「復山」までの間、葬家では毎日会食の席を設けられるか、「上山」から五六日のうちに、必ず家族が同席して、互いに慰めあうという。
死後三年の間は、毎年清明節と春節の時に墓参りをし、三年後には墓に石碑を建て、息子達はそれに自らの名前を刻み込む。また、その時には卵を食べる。四月の初めの清明節には、新墓、古墓を問わず墓参りをするが、その時、糯米飯、豚肉、酒を持って行って供え、墓の所で一緒に食事をするという。⑯
仏教が日本へ伝入してから、日本社会の各方面に大きな影響を与え、日本の葬制を仏教と一定の関係があると思う。例えば、日本では人間が死んでから閻魔庁で審判されることが信じられ、もし人間の世界で悪い事をしたら、審判する時罰を受けて、地獄へ行かなければならない。これと仏教の宣伝する「因果応報」と深い関係がある。けれども、仏教が伝入する前までは、日本の葬制の中にいろいろな儀礼があったはずだと思って、それらの儀礼はいまからとても古いもので、実際に自分の目でみることができないのに、現在の葬式の中に、日本の古い葬制のある方面を窺むことができると思う。外来文化、特に仏教は古代の日本文化に巨大な影響を与えたことがあるのに、日本固有文化は発展する過程中、たくさんの自身の特徴を保存している。苗族文化もそうだ。例えば、「清明節の墓参り」という、この活動はもともと漢民族文化の一つである。その目的は自分の先祖を祭ることだ。漢民族文化の影響のもとに、苗族文化がこれらの面を吸収したのだ。でも、苗族は祖先を祭るのを中心とする墓参りは、清明節だけでなく、ほかのたくさんの行事の中にもよく見える。日本文化と苗族文化とも外来文化から影響を受けたが、あることは発展する中で、互いに変容していく一方で、自分の固有の伝統文化の特徴も保存していたのである。日本と苗族の葬式の中には、人が死るとすぐ遺体を洗い清める習俗が共に見られる。漢民族の葬式の中にはこのようなことはない。羅信耀氏が書いた『北京風俗大全――城壁と胡同の市民生活志』(東京平凡社、1988年、この本は英字新聞北京クロニクル紙上に約一年間連載された『呉の冒険――北京人の一生』である。北京クロニクル出版社から上下二冊の本になって出版された。上冊、1940年、下冊、1941年)の中には「呉老人の死」(P、P、327-335)を述べたところがある。呉老人の葬式は典型的な漢民族葬式である。彼が死んでから遺体を洗う行事がない。それから、ほかの漢族の老人(李漢明)の話によると、屍体を洗うのは漢民族式の風俗習慣ではないそうだ。日本と苗族の葬式の中に、これらの相似点があるのは、これはおそらく苗族文化と日本文化が共に照葉樹林文化に属しているためだろう。
祖先祭り――「お盆」と「鼓社節」
日本では、「うら盆」という祭りがある。先祖の霊をまつる行事で、一般には「お盆」といっている。
「お盆」の中日は七月十五日である。十三日の夕方に各家ごとに精霊迎えの火を焚いて祖先の霊を迎え、盆棚をつくって花や供え物をしてまつる。精霊迎えは「宵盆」とか「迎え盆」という。
先祖の霊は、大空から一旦高い山に下り、迎え火や、高灯籠を頼りにやって来ると言われた。蒿や茄子、胡瓜で牛や馬や舟をつくるのも、先祖の霊がこれに乗って来ると言う信仰にもとづくのである。
お盆の期間中は、仏教では肉や魚などの生臭物を食べないことになっているけれども、それにこだわらないで、両親のある者は生臭物を食べてよいとか、あるいは「生御霊」と言って、年老いた親のために魚を取ってきて食べさせる風習が行なわれているところもある。
お盆には、座敷に盆棚を作り、これに位牌を置いて野菜や花を供えて、寺からお坊さんを呼んでお経をあげてもらったり、墓参りをしたりする。
お盆の供え物には、団子、そうめん、果物が使われる。
十六日に送り火を焚いて、先祖の霊を見送ってあの世に送り帰し、供え物は川や、海などに流す。⑰
この行事は先祖の霊をまつる内容を中心として苗族の祭り鼓社節とよく似ている。
鼓社節という祭りは普通子、丑、寅の三ヵ年に恒る。
儀礼は、子年の秋の「吃新節」の日の「醒鼓」鼓をめざめさせることで始まる。この日「鼓頭」の家をふり出しに、糯米と、酒麴を集めて酒をかもし、うまく発酵すれば祖先が喜んで受けとったと解される。魚をとって、酒と共に十三年前に作って安置してあった祖先の鼓に、供物として捧げる。籚笙を吹き、鼓を叩いて、「醒鼓詞」を念じて、祖先を呼び醒ます。
次に子年の旧十月子の日に、「拉鼓」をする。最社に「鼓社」の老若男女が、糯米飯、米酒、煮魚、ニワトリ、アヒルを供物として捧げる。子の刻に「祭師」と「副祭師」が、「鼓頭」の家から出て行列を作って、選定した木の所へ来て、唱え言をして切り倒す許しを乞う。次に木の根元で竹の卦を占って吉とでると、米を撒き、ニワトリとアヒルを殺して、その血を幹になすりつける。フジヅルを木に巻いて、日の出の東方の方向に向かって引っぱるようにしてから、祭師が木に斧を入れる。切り倒した「鼓樹」は二分して担ぎ、蘆笙の鳴り響く中を、村の端の「鼓坪」へ迎え入れて、「鼓棚」を作って安置する。
「鼓樹」を香椿の木の上に置き、十六人の組で編成される蘆笙が、一節ずつリズミカルに鳴り響く中を、両端から中心に向かってうがっていく。最後に二つの木から、牛の心臓に似せて「鼓心」を掘り出す。「祭師」はこれを手で捧げて、人類の始祖の蝴蝶媽々の霊が安らかにこの樹の中に住まいするようにと唱えて、「鼓頭」の家の神棚に納めておく。くりぬいた木は洗い清め、杉樹の皮で両端を封じてから、「停鼓祠」の中に安置する。以後十三日に一度ずつ、「鼓頭」が木の皮を叩き、祖先の霊を呼び醒まし続け、丑年の大祭を待って、古い鼓と取り換えるのである。
丑年が来ると、旧十月最初の丑の日から、十三日間に恒る大祭が始まる。初日は蘆笙が吹かれ、皆が楽しく酒食をとってうかれ騒ぐ。翌日の朝、「鼓頭」は助手や各家の戸主を率いて、「停鼓祠」へ行き、ニワトリやアヒルをはふって鼓を叩き、祖先の霊を呼び醒ます。この時に、前回の鼓社節から今回までの間に亡くなった全氏族の物故者の名前を読み上げられる。ここで、「鼓主」と各家の戸主は、神霊と一緒に、食事を共食する。その後で古い鼓が村の公共の「祭鼓田」の中央に安置されて、供物が捧げられる。こうして、古い鼓は捨てられ、古い祖先達が、鼓を後輩の死者にゆずること、後神が先神のあとを継ぐことになる。
次の日、祖先の霊を正式に鼓に鎮め祀る。重要な「引鼓」の儀礼がある。村から五百メートルほど離れた、祖先の霊魂の宿るとされる大きな楠の樹から霊魂を引いて村に戻り、鼓の中に鎮めるのである。苗族は、祖先の霊魂が楠の樹を伝わって、天上と登り降りすると信じているので、楠樹の下で祖先を丁重にお迎えのである。
祖先の霊を招いた翌日、牛を供犠して、祖先を祭祀する。供犠は香椿の木の脇で執行され、牛が抜いて心臓をとり出して、祖先を祀る。この後、死者が生前に住んでいた住居を縮小した霊房を「祭鼓田」に建てる行事がある。こうして、丑年の十三日間に恒る行事は幕を閉じる。
鼓社節の三年目の寅年には、「送鼓」が行なわれる、次に「鼓」は「鼓頭」の家の中に置かれて、祖先を故郷へ送りかえす行事が始まる。この後で、人間に崇りとする悪霊を祓い新しく作った祀られない魂をこめた「山鼓」を山の洞窟へと送り帰す。最後に清めの行事「洗鼓」があり、辰または已の日を選んで行なわれる。辰の日の晩に、「祭師」が供物を捧げ、祖先が故郷へ帰って行ったこと、悪鬼は道端に埋もれて悪さをしないこと、龍が来たって洗い清めることを願うのである。それから、祭祀は終了する。⑱
苗族の鼓社節の中には、まさしく苗族の世界観が凝縮されている観がある。日本の「お盆」は伝統的な精神のある方面を反映している。苗族の祖先は樹木を通して、天上または東方から招かれて降臨し、牛によって迎えられ、鶏によって送られるとされ、祭祀が終わるとその故地へと帰っていく。日本でも先祖の霊がなくならないと信じて、火と焚いて、蒿や茄子、胡瓜で牛や馬をつくって、大空から高い山を下りやって来る先祖を祭る。祭祀が終了するとき送り火で送り帰す。苗族では人間と祖先の相互を媒介するものは牛や鶏といった動物や鳥類、そして樹木であり、その場合の祭具は「鼓」が中心となる。「鼓」を一種の器として、霊魂がそこを出はいりできると考えられており、鼓の音によって霊魂がよび醒まれたり、活性化したり、鎮められたりする。日本では火を焚いて、蒿や茄子、胡瓜で牛や馬を作って、祖先を迎える媒介にした。これは原始祭りの変遷である。昔は実物の牛や馬などの動物で祭った可能性があると考えられている。
あとがき
日本はゆたかな文化を持つ国家であって、日本人は外来のすぐれた文化をうまく吸収する民族である。そうだけれども、日本国民の生活の中には、相当の部分の伝統習俗が保たれていて、交通が不便な山岳地帯で、昔の残した風俗習慣をもっと多く保存している。日本社会の発展につれて、それらの古い民俗は現代文明によって失われつつある。けれども日本文化の発展を研究することに興味がある人々は、そのような民俗資料を整理して、研究しようとしている。日本現代社会の中に、日本文化の形成と発展、それから日本文化とほかの文化の関係を中心とした専門的な調査研究の気風が大いに高まっている。本稿冒頭で述べた日本の民俗学者の柳田国男氏のほかに、「照葉樹林文化論」を提唱している中尾佐助氏や、佐佐木高明氏などの学者もいる。
日本語を勉強している学生として、日本の文化、特に日本文化の形成する背景に筆者は深い興味を持っている。日本文化起源の説は筆者が生活している、少数民族がたくさん居住している貴州省と密接に関連している。生活の中に、筆者は少数民族の風俗と習慣をよく見る。それから、旅行社で実習した時、たくさんの少数民族の村を訪れたことがあって、とくに苗族が住んでいるところ、自分の目で実際の民俗を見たことがある。それとたくさんの本から苗族に関して勉強したものとを一緒に考えると、日本文化と苗族文化の間にある種の関連が存在していると感じて、このような関連は本稿で述べた昔話、行事、祭祀、宗教、儀礼などの似通った点を含むはずである。もちろん、歴史の発展その他の影響によって、両者の文化にはそれぞれ独自の特徴が認められる。にもかかわらず、それらの相違点は、日本と苗族がその基層文化を同じくすることを隠すことはできないであろう。日本のたくさんの学者もこれらの方面に大量の調査研究を行っている。中尾佐助氏が自著『栽培植物と農耕の起源』(昭和四十一年)のなかではじめて提唱した「照葉樹林文化論」は従来の日本文化起源論とはまったく別の角度から論じた学説である。その後、佐々木高明氏や上山春平氏などの学者は、この学説を支持して、たくさんの本を書いた。この「照葉樹林文化論」はその説くところの大筋は次のようである。ヒマラヤ山脈の南麗部から、アツサム、東南アジア北部の山地、雲南高地、さらに楊子江の南側(江南地方)の山地をへて、日本の西南部に至る、東アジアの暖温地帯にひろがっている常緑のカシ類を主体とした森林がある。この森林は常緑で樹葉の表面がツバキの葉のように光っているので「照葉樹」とよばれている。この照葉樹林帯には多くの民族が住んでいるが、その生活文化の中には数多くの共通の文化要素が存在する。野生のイモ類や堅果類の水さらしによるアケ抜き技法、茶の葉を加工して飲用する慣行、マユから糸をひいて絹をつくり、ウルシノキやその近縁種の樹液を用いて漆器をつくる方法、柑橘とシソ類の栽培とその利用、麹(コウジ)を用いる酒を醸造すること、大量の雑穀類を栽培する焼畑農耕、モチという粘性に富むきわめて特殊な食品などのことは、,照葉樹林地域によく共通している。照葉樹林帯に見られる民族文化の特色と日本の伝統的な文化の間には、きわめて強い文化の共通性と類似性が見出せることが明らかになってきたのである。その結果、日本の古い民俗慣行のなかに深くその痕跡と刻み込んでいるような伝統的な文化要素の多くが、この地域にルーツをもつことがわかってきた。⑲ これが「照葉樹林文化論」だ。筆者は自分の見聞によってこの説を支持している。本稿においては以上また別の方面から、貴州の主な少数民族の苗族と日本の文化とを比べて、苗族文化と日本文化との共通性と類似性を論究してみた。もちろん、本稿中には不備な点が多々あることと思う。また、筆者自身に経験に基づいて書いた部分で、その普遍性に疑問のある箇所もあることだろう。そのような不適切な点に対しては。読者諸賢の遠慮のない御批判、御教示を乞う次第である。
なお、本稿執筆にあたって日本の曾士才先生、吉岡幹浩先生と日本語科の先生がたが全力をあげて助けてくださったことに、ここで深い謝意を表したいと思う。
注:
桑田忠親『物語日本史』、偕成社、1978年、P.P.15-16
佐々木高明『照葉樹林文化の道――ブータン・雲南から日本へ』日本放送出版協会、1990年、P.11
金丸良子『貴州苗族の民俗と信仰』
馬演主編、君島久子監訳『概説中国の少数民族』、三省堂、1987年、P.21
佐々木、前掲書、P.P165-166およびP.171
この部分の記紀神話の引用は全て同書による。
佐々木、同上書、P.172
苗族文化を研究している曾士才先生の話によると、「榜相」と「留相」は一人で、すなわち妹榜妹留である。
鈴木正崇『中国南部少数民族誌』、三和書房、1985年、P.192
土橋寛『歌掛け、文化圏の中の日本』
土橋、同上書
佐々木、前掲書、P.181
同上書、P、P181-182による
金丸、前掲書
加太こうし、『シキタリがわかる便利雑学事典』、日本実業出版社、1985年、P.P.54-69
曾士才先生の話によると、普通は息子達が棺を担かない。
金丸、前掲書
加太こうし、前掲書、P.262
鈴木、前掲書、P.P.237-243
佐々木、前掲書、P.P.13-14