翻訳:王 麗
修正:須崎 孝子
監修:姚 武強
補筆・再構成:大橋 直人
起源と歴史
侗(トン)族大歌は、中国南部に暮らすトン族が伝承してきた多声部合唱であり、その起源は春秋戦国時代にまで遡ると伝えられます。2500年以上の歴史を持ち、指揮者を置かず、楽器伴奏もなく、歌い手たちが自然に声を合わせるという独自の形式を守り続けています。
国際的評価と近年の展開
1986年、フランス・パリで開催された「金秋芸術祭」において、貴州省黎平県・従江県の歌い手たちが披露したトン族大歌は、「清泉のごとく澄みわたり、古代の夢のほとりを渡る旋律」と称賛され、世界的な注目を集めました。2009年にはユネスコの「人類の無形文化遺産代表一覧」に登録され、国際社会においてその文化的価値が広く認知されました。さらに2016年には、音楽家バミューダ・ストーンのプロデュースによる世界初のトン族大歌テーマアルバム『天賦トン聴』が発表され、翌2017年に「第一回CMA唱工委音楽盛典」にて「ベスト民間/民族アルバム賞」を受賞するなど、伝統と現代音楽シーンの架け橋としても注目されています。
音楽的特徴
トン族大歌は旋律構造、歌唱法、技巧のいずれにおいても一般的な民間歌曲と大きく異なります。高音と低音の多声部が調和しながら進行する複調的合唱であり、民間音楽におけるポリフォニーの稀有な例とされています。そのため音楽学的にも重要視され、世界の民俗音楽の中でも極めて独自性が高い存在です。
また、トン族大歌は単なる芸術表現にとどまらず、トン族の文化的アイデンティティや共同体の精神的結束を体現する重要な手段であり、彼らの文化の「生きた表現形態」といえます。
地域的分布
歴史的に大歌は、トン語南部方言区において歌い継がれてきました。特に貴州省黎平・従江・榕江、広西壮族自治区三江の4県を中心に広がり、黎平県南部、従江県北部、榕江県および三江県の一部が核心地域とされています。代表的な歌には「蝉の歌」「山の美しさ」「からかい歌」「リスの歌」などがあり、それぞれ自然・生活・感情を豊かに描写しています。
構造と分類
大歌はトン語で「Gal Laox(ガー・ラオ)」と呼ばれ、「Gal」は歌、「Laox」は壮大かつ古いことを意味します。基本的な歌唱形式は「一つの高音と複数の低音」からなる複調的多声合唱であり、無指揮・無伴奏が特徴です。
大歌の構造は「果(組)」「枚(首)」「僧(段)」「角(文)」から成り立ち、内容に応じて以下の七類に分類されます。
⚫︎鼓楼の大歌
⚫︎声音の大歌
⚫︎叙事の大歌
⚫︎子どもの声の大歌
⚫︎戯曲の大歌
⚫︎社俗の大歌
⚫︎混声の大歌
これらは自然賛歌、労働歌、恋愛歌、友情歌などを通じて、人と自然、人と人との調和を表現しています。
継承と社会的機能
トン族大歌は3人以上の歌隊(歌クラス)によって歌われます。各歌隊には少なくとも音頭(リーダー)、高音部、数名の低音部が含まれます。子どもたちは幼少期から歌隊に加わり、村ごとに組織された歌隊で経験豊かな歌師(師匠)から農閑期を利用して指導を受け、やがて鼓楼での正式な合唱に参加できるようになります。
伝統的な対歌や競歌は、「トン年節」「新節」「春節」などの祝祭日や、農閑期に行われる村落間交流の場(「委嘿」と呼ばれる歌会)で盛んに実施されます。歌の場は単なる芸能活動にとどまらず、若者たちが民族文化を継承する教育の場であり、かつては男女が出会い恋愛へと発展する重要な社交の場でもありました。
学術的補足
⚫︎音楽学的意義:大歌は、無伴奏・無指揮の多声合唱という形式を長期間維持してきた希有な例であり、ヨーロッパのポリフォニーと比較研究されることもあります。
⚫︎社会人類学的意義:歌隊は血縁・同輩・同性の原則で構成されるため、音楽活動が共同体の秩序や世代間教育と密接に結び付いています。
⚫︎文化的意義:歌唱そのものが歴史叙述・自然観・倫理観の継承手段であり、トン族にとって大歌は「口承文化の百科全書」とも称されます。