翻訳:姜 応春
修正:須崎 孝子
監修:姚 武強
補筆・再構成:大橋 直人
歴史と技法
ミャオ族のろうけつ染め(蝋染め)は悠久の歴史をもち、その起源は古代にまでさかのぼります。完成された作品は染色と織布の芸術において高く評価され、中国における伝統工芸の重要な一翼を担ってきました。古代には、蝋染め(ろうけつ染め)、絞り染め(纈:けち)、版木による中空印刷(夾纈:きょうけち)が「中国古代三大印花技術」と呼ばれ、その高度な染色技術が知られていました。
『貴州通志』には、「布に花模様を描き、蝋を施して染め、蝋を除けば模様が絵のように現れる」と記されています。この技法による布地は、かつて「斑布」と呼ばれ、特に貴州省八寨地域のミャオ族によって盛んに生産されました。藍染めの地に白い花模様が浮かび上がるその布は、素朴でありながら民族的色彩に富み、中国における独自の芸術的表現として高く評価されています。
蝋染めは、麻、絹、綿、毛織物などに蜜蝋で模様を描き、藍などの染液に浸すことで行われます。蝋を施した部分は染料をはじき、染色後に蝋を除去すると模様が鮮やかに現れる仕組みです。この独自の技法は2006年5月20日、国務院の認定により中国国家級無形文化遺産の第1回目のリストに登録されました。
起源伝説
ミャオ族の間には、蝋染めの起源に関する伝説も伝わっています。
昔、賢く美しいミャオ族の娘が、単色の衣装に満足できず、さまざまな花模様をスカートに染めたいと願っていました。しかし、一つひとつを手描きするのは大変な作業で、良い方法を見いだせず思い悩んでいました。
ある日、娘は花束を眺めながら眠りに落ち、不思議な夢を見ます。そこでは花の精が現れ、彼女を百花が咲き乱れる庭へと導きました。蝶や蜂が舞う幻想的な庭に魅了されるうち、蜂蜜と蜜蝋が彼女の衣服に付着してしまいます。目覚めたとき、娘の服には蝋の斑点が残っており、見栄えの悪いものでした。娘はそれを隠そうと藍染めに浸し、さらに熱湯で蝋を落とすと、濃紺の地に美しい白い花模様が浮かび上がったのです。
娘はその不思議な現象を応用し、白布に蜜蝋で模様を描き、藍で染め、最後に蝋を落とすことで多様な花模様を生み出しました。やがて人々は彼女の歌声や美しい衣装に惹かれ、その技法を学びに訪れました。こうして蝋染めの技法は広まり、ミャオ族をはじめ、プイ族やヤオ族など周辺の民族にも受け継がれていったと伝えられています。
歴史的展開
考古資料や文献によれば、すでに秦・漢代のころには中国南西部に居住するミャオ族、ヤオ族、プイ族などの祖先が蝋染め技術を習得していたと考えられます。これは、当時の少数民族が染織や刺繍など高度な手工芸技術を有していたことを示すものです。
宋代には「点斑蝋布」と呼ばれる蝋染めが広く流行し、明・清代になると、貴州中部のミャオ族の間でも蝋染め布は日常的に使用されるようになりました。こうした歴史的展開を通じて、蝋染めは単なる生活用品の装飾にとどまらず、民族の美意識とアイデンティティを象徴する芸術として発展していったのです。
ミャオ族のろうけつ染めの地域的特色
ミャオ族のろうけつ染めの中でも、特に代表的なのは貴州省の丹寨(たんさい)、黄平(こうへい)、安順(あんじゅん)、栄江(ようこう)に伝わるものです。それぞれの地域には独自の美的特徴と技法が見られます。
丹寨ミャオ族のろうけつ染めは、古風で奔放な趣をもち、比較的大型の作品が多く見られます。文様は動植物を抽象化したもので、花・鳥・魚・昆虫などを変形させつつも具象性を保っている点が特徴的です。用途は衣服にとどまらず、キルト、敷物、テント、袋物、さらには祭礼など多岐にわたります。とりわけ祖先祭祀においては「祖先の服」と呼ばれる特別な蝋染衣を着用する習わしがあり、13年ごとに催される大規模な祭祖儀礼「牯蔵節」では、龍紋をあしらった大きな蝋染布が高く掲げられ、龍を祖霊的象徴とする信仰が表現されます。
黄平ミャオ族のろうけつ染めは、工整・精緻で、小型の作品が主流です。文様は動植物を高度に様式化したものと幾何学文様を組み合わせ、厳格な構図で構成されます。衣服用のほか、かばん、枕巾、籠の覆い、手ぬぐいなど生活道具にも広く用いられています。
安順ミャオ族では、幾何学的な要素を多用し、精巧な構図をもつろうけつ染めが特色です。
栄江のミャオ族では、鼓蔵協会の儀礼に際して、彩色した蝋染の旗が儀仗の前で翻ります。また葬礼においては、蝋染布を用いて殉葬の衣を作る風習があり、その文様には古式の銅鼓紋様や渦巻文が多く見られます。
さらに、貴州省北西部の納雍(ナヨン)や水城(すいじょう)のミャオ族の蝋染も独自性を示しています。ここでは花・蝶・草木などの自然モチーフに加え、密集した幾何学文様が組み合わされ、画面全体を緻密に覆う構成が特徴です。これらの文様の多くは、銅鼓の装飾パターンに起源をもつと考えられ、渦巻文、雷文、同心円文、波状文、折線文などの抽象的な幾何文様が蝋染の中に保持されています。
他方で、最も一般的に用いられるモチーフは、魚や蓮(愛の象徴)、石榴(多産)、桃(長寿)、蝶や鳥(吉祥・幸福)など、豊饒と吉兆を象徴する自然文様です。こうした象徴性をもつ意匠は、単なる装飾を超えてミャオ族の生活世界や価値観を反映しています。
なお、蝋染布は染色を施さずに蝋だけを塗布した場合でも、蝋の濃淡による表現が生まれ、完成品とは異なる独自の趣を呈することがあります。
ろうけつ染めの技法的制約と美的特徴
ろうけつ染めにおいては、赤地に白花、黄地に白花、緑地に白花といった布地はほとんど存在しません。その理由は、使用される染料と技法の特性に起因しています。藍染めは酸化還元反応によって発色するため、常温の水で染色を行う必要があります。一方、サフランやクチナシなどの植物染料で綿布を染める場合には、高温の湯を用いる必要があり、低温では色が定着せず退色しやすくなります。しかし、高温では防染材としての蜜蝋が溶解してしまうため、模様の輪郭を保持することができず、結果として「花形」を維持できなくなります。したがって、古代のろうけつ染めにおいて多彩な色調を表現することは困難であり、藍地に白花という組み合わせが最も一般的であったのです。この点において、ろうけつ染め布は藍木綿(ブルーキャリコ)とも類似した印象を与えます。
ろうけつ染めの核心的な美的要素は、いわゆる「氷紋(ひょうもん)」と呼ばれるテクスチャーにあります。これは、布を折り畳んだ際の蝋のひび割れや亀裂から染料が浸透することによって生じる、偶然性に満ちた抽象的な色彩模様です。氷紋は単なる装飾効果にとどまらず、真にろうけつ染めであることを示す一種の「真贋の証」ともみなされています。実際の氷紋は不規則で自然発生的なものであるのに対し、模倣による偽の氷紋は往々にして規則的で均質なパターンにとどまります。この点においても、ろうけつ染めは自然と技法の相互作用によって生み出される、偶然性と必然性が交錯する芸術表現であるといえます。
― ミャオ族ろうけつ染めの文様 ―
1、蝶のモチーフ
ミャオ族のろうけつ染めは、独特の主題をもち、内容と形式を巧みに融合させている点に特色があります。そのモチーフは大きく七つに分類されますが、その中でも最も象徴的で重要なのが「蝶の文様」です。
この蝶文様の起源は、ミャオ族の古い神話叙事詩『姉妹の誕生』や『十二の卵』に由来します。伝承によれば、カエデの木が蝶へと変じ、その「蝶母(ママ・バタフライ)」が水の泡と交わって十二の卵を産みました。卵は鶴の一種である「鶴宇鳥」によって孵化し、その中から雷、水竜、蛇、虎、羊、象、猪など多様な存在が生まれます。その一つがミャオ族の祖先・姜陽(ジャン・ヤン)であり、彼は「メイバンメイリウ」(母なる蝶)から生まれたとされています。
ミャオ族神話において蝶母は、神・人間・動植物・雷霆に至るまで、世界のあらゆる存在を生み出した根源的な祖先と位置づけられています。そのため、蝶は単なる美的意匠ではなく、生殖力・生命力・美の象徴として深く崇拝され、最も重要かつ人気の高い文様となってきました。
ろうけつ染めに表される蝶の図像は、写実的なものから抽象的・変形的なものまで多様であり、舞い飛ぶ姿、地を這う姿、正面・側面・背面からの描写など、変化に富んだ表現が存在します。これらの蝶の優美な造形は、ミャオ族のみならず中国各民族の人々からも広く愛好されてきました。
このように、ミャオ族の蝋染めにおける蝶文様は、単なる装飾的意匠を超え、祖先崇拝の観念を蓄積した象徴的表現です。すなわち、蝶への愛と崇拝はそのまま祖先への敬意と信仰の表れであり、蝋染め芸術における蝶のイメージは、ミャオ族の文化意識や宗教観と密接に結びついているといえます。
2、魚と鳥の文様
ミャオ族のろうけつ染めにおける魚と鳥の文様は、蝶の文様と同様に「生命力の賛美」を主題としています。ミャオ族の伝承において、鳥は雄を、魚は雌を象徴し、その組み合わせは夫婦和合を表現しています。特に魚文様は鳥のような翼をもち、鳥文様は水中を泳ぐ「水鳥」として表される場合が多く、これらは男女が共に子孫繁栄という使命を担うという観念を反映していると解釈されます。すなわち、性別の区別を超えて生殖を祈念する信仰が、この特異なモチーフに込められているのです。
魚文様の根底には「生殖崇拝」の思想が存在します。魚は多産であり、その腹部には多数の卵を宿すことから、豊饒と子孫繁栄の象徴とみなされてきました。そのため魚文様は、強い再生力や生命力への憧憬を示しています。やがて時代とともに、漢族文化に見られる「鯉の滝登り(登竜門)」が立身出世を象徴し、「魚と蓮(余と連)」が「毎年余裕がある」という吉祥の寓意を帯びるように、魚は多様な吉祥的意味を担うようになりました。しかし、貴州の少数民族においては、依然として魚の多産性に根ざした生殖崇拝が強く意識されており、ミャオ族の民謡にも「子は稚魚のように多い」といった表現が繰り返し登場します。また、祭祀において魚は不可欠な供物とされ、後裔の繁栄を祈る象徴的存在であり続けています。ろうけつ染めに表される魚は、ふくよかな体をもち、腹部に稚魚が描かれたり、卵を思わせる斑点が配されたり、鱗を卵状に単純化した表現が施されるなど、いずれも原始的な生殖信仰を色濃く映し出しています。
一方、鳥文様もまた吉祥性と生命讃歌の意匠として広く用いられます。山間に暮らすミャオ族の少女たちにとって鳥は生活の伴侶であり、その自由で軽やかな姿は幸福への憧れを象徴しました。さらに、鳥は祖先崇拝とも深く関わります。先述の蝶母神話において、十二の卵は鶴宇鳥によって孵化され、その中からミャオ族の祖先・姜陽が誕生したと伝えられます。このことから鳥は、祖先との結びつきを有する存在として崇められ、しばしば特定氏族のトーテムともなりました。古典『山海経・神異経』には「驩頭」という古代部族の首領が記録されており、鳥と結びつけられた伝承は五千年以上さかのぼるともいわれます。
ろうけつ染めに描かれる鳥のモチーフは、写実的なものから想像的なものまで幅広く存在します。キジ、カササギ、スズメ、ツバメ、ハト、オウム、クジャク、サギなど具体的に同定可能なものもあれば、抽象化され鳥の形象のみを強調したものもあります。多くの場合、花草に囲まれ、口を開いたり頭をもたげたりする姿、あるいは背中合わせに飛び交いさえずる姿が描かれ、生命の躍動感を力強く表現しています。
3、龍文様
ミャオ族において、龍は常に人類に幸福をもたらす吉祥の象徴として理解されてきました。とりわけ貴州省の少数民族地域に見られる龍文様は独自の発展を遂げており、その形態や象徴的意味は漢民族地域における龍文様とは大きく異なっています。
中国における龍は最古のトーテムの一つであり、秦漢以降、漢民族にとって龍は帝権を象徴する最高のシンボルへと昇華しました。その図像は時代とともに、角や鋭い歯をもつ威厳ある姿へと進化していきます。これに対し、貴州の少数民族が描く龍文様は、しばしば素朴で愛嬌を帯び、人間や自然に親しい印象を与えます。ミャオ族の人々は龍を畏怖の対象とするのではなく、むしろ親しみをもって捉えており、漢族の龍ほど力強く猛々しい表象をもたないのが特徴です。
ミャオ族のろうけつ染めにおける龍文様は、固定的な形式にとらわれず、常に多様な姿へと変化します。鳥の頭をもつ蛇の身体、牛の頭に魚の胴体、あるいはオタマジャクシに似た形態など、変幻自在な表現が用いられます。そのため、ミャオ族の間には「水牛龍」「魚龍」「蚕龍」「葉龍」「蟠龍」「魚尾龍」「水龍」など、豊かなバリエーションが存在します。たとえば、龍江地域のミャオ族に伝わるろうけつ染めの龍は、蛇と蚕を思わせる姿をとります。龍の姿勢もまた、飛翔・屈曲・伸長といった多様な変化を見せ、自由自在に描かれます。
研究者の中には、こうした龍文様には単なるトーテム信仰だけでなく、豊穣や繁栄を祈り、災厄を払拭するという祈願的意味も込められていると指摘する者もいます。すなわち、ミャオ族の龍は畏怖の象徴というより、生活に根ざした守護と祝福の象徴として機能しているのです。
4、渦巻き文様
ミャオ族のろうけつ染めにおける渦巻き文様は、主として衣装の裏地や袖、掛布などに用いられる伝統的な装飾であり、「団結」と「調和」を象徴するものとされます。ミャオ族は自然を敬愛し、急流に生じる渦や曲折する水流の姿に美を見出し、それを繁栄や吉祥の徴として捉えてきました。そのため、渦巻きは吉祥文様として広く認識され、民族的意匠の中で特に重要な位置を占めています。
渦巻き文様の源流は、中国新石器時代の陶器装飾にまで遡ることができます。当時は自然界の水のうねりを写し取ったと考えられており、その造形的模倣が文様として定着しました。漢民族の工芸品においては後世ほとんど見られなくなりますが、貴州省の民間ろうけつ染めにおいては、今日に至るまで継承され、むしろ顕著に用いられています。視覚的には、渦巻きはもっとも印象的な幾何学文様の一つであり、また象徴的意味をめぐる多様な解釈が存在する点で、最も議論を呼ぶ文様でもあります。
学術的には、おおよそ三つの主要な解釈が指摘されています。第一に、渦巻きはミャオ族の祖先が長い移動の過程で山河を越え、浅瀬に残された渦跡を通り抜けた記憶を象徴するという説です。第二に、祖先祭祀との関連です。牛を犠牲とする儀礼の際、その頭部に渦巻きを描き、祖霊を象徴する印としたという伝承があります。第三に、薬草伝承との関わりです。ある古い伝説によれば、才知に優れた少女が重病にかかったとき、母親がシダの根元に生える柔らかな苔を集めて与えたところ、病が癒えたといいます。その「命を救う草」を忘れぬため、渦巻きとして衣服に表したと伝えられています。
このように、渦巻き文様は単なる装飾性にとどまらず、移動の記憶、祖霊信仰、薬草伝承など多様な文化的意味を内包しており、ミャオ族の世界観を象徴的に凝縮する意匠といえます。
5、花と植物の文様
ミャオ族のろうけつ染めにおける植物文様は、種類が極めて豊富であり、かつ漢民族における植物文様とは大きく異なる特徴を示します。漢民族の工芸では、牡丹・蓮・桃・石榴などが富貴や吉祥の象徴として広く用いられてきましたが、ミャオ族のろうけつ染めに表される植物文様は、それとは異なる発想に基づいています。梅花、桃花、杏花、綿花などが幾何学的に洗練され、抽象化された形で表現されるのです。これらの植物は、女性の日常的な労働や生活の場面に身近に存在しており、その観察や想像を通じて、美意識の対象として再構成され、生命力と活力を帯びた図像として布上に表現されています。
その中でも、特に丹寨ミャオ族に伝わる「梨の花文様」は、地域的特色を最もよく体現する代表例といえます。伝承によれば、長い移住の途上で疲弊し、血をすり減らし、生の意欲を失いかけた先祖たちが、山中で咲き誇る野生の梨の花に出会い、その美しさに触れて生きる力を取り戻したといいます。この体験は深い美的記憶として共同体に刻まれ、以後、梨の花は民族的象徴となりました。また別の伝説では、中原から西南への長い旅の途中、女性たちが道中で目にした草花を服飾文様として写し取り、それが今日に伝わる伝統的な植物文様の源となったとも語られています。梨花文様には、子どもの健やかな成長と安全を祈る意味も込められており、吉祥を象徴する意匠として親しまれています。
さらに、シダの文様もミャオ族のろうけつ染めに見られる重要なモチーフです。伝承によれば、ある女性の病をシダが癒したとされ、この経験が契機となって、シダは守護と治癒の象徴として文様化されました。
このように、ミャオ族の植物文様は、単なる装飾ではなく、生活経験・移住の記憶・伝承的物語と深く結びつき、共同体の世界観や価値観を象徴的に表現しているといえます。
6、銅鼓文様
青銅製の鼓(銅鼓)は、ミャオ族文化の象徴的特徴の一つであり、その文様はしばしば伝統的なミャオ族のろうけつ染め文様の源泉となってきた。さらに、ミャオ族以外の少数民族においても、銅鼓文様は重んじられてきた。古代において銅鼓は、祭祀・娯楽・戦闘など多様な場面で用いられ、その尊重や文様の再現は、祖先への懐旧と崇拝の意を込めたものであった。
宋代の朱輔が著した『溪蛮丛笑』には、「溪峒の人々は金玉よりも銅鼓を愛好する」と記されており、銅鼓が地域社会において極めて重要な位置を占めていたことがうかがえる。また、清代の張銭による『黔中紀文』にも「書記官はその水文で知られる綾織布を所有し、匠人は銅鼓文様を用いてろうけつ染めを施した」との記録が残されており、銅鼓文様が布地装飾に積極的に取り入れられていたことを示している。
時代を経るなかで継承の形には変化が見られるものの、銅鼓の中心文様は、ろうけつ染めにおいて依然としてきわめて典型的かつ顕著な要素として存在している。その中心部の意匠は、放射する光を表す太陽文様にほかならない。
7、星と山の文様
ここで言及する「星」と「山」の文様は、もはや客観的な星雲や山河の自然景観を写実的に描写したものではなく、抽象化された図像の組み合わせとして表現されている。それらは独特の造形美を有するのみならず、深い歴史的・文化的意味をも内包している。
歴史的記録によれば、ミャオ族はかつて故地を離れ、大規模な移動を経験したとされる。この移住は民族にとって悲劇的な出来事であったが、人々はその記憶を心に刻むとともに、文様を通して後世に伝えようとした。たとえば、「九曲川文様」は大小さまざまな菱形や鋸歯状の交差によって構成され、縦横に走る河川を象徴している。また、「都市境界文様」では、外枠の方形が城壁を示し、四隅の小方形は角楼を、中央の十字は街路を表すと解釈される。
こうした文様は単なる装飾にとどまらず、祖先の移動史を象徴的に記録する機能を担ってきた。実際、ミャオ族の伝承によれば、これらの文様や構成は、かつての「七つの故地」と祖先の長い移住経験を表しているという。たとえば、プリーツスカートに織り込まれる黄色の水平線は黄河を、緑の水平線は長江を、空白部分は農耕地を象徴するものとされる。こうした象徴性から、このスカートは「移住スカート」あるいは「母なる河のスカート」と呼ばれ、民族的記憶とアイデンティティを体現する重要な意匠となっている。
ろうけつ染めの技法は、人類が用いた最古の印刷・染色技法の一つであり、そのため「身体に刻まれた歴史」とも称されます。ミャオ族文化の研究者である韋文揚によれば、歴代王朝の交替を経て、中原における新しい技術の導入と普及の過程で、ろうけつ染めは徐々に排斥され、やがて辺境に暮らす少数民族のみが伝承・保持する技法となったといいます。